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Stephen KingのCat's Eyeに見るもう一人のロリータ/渡部美優貴

 アメリカを代表するミステリー作家、スティーヴン・キングの作品は、その多くが映画化されてきた。その中に、キング自身が「とてもよくできた映画だ。だから、興行成績があまりふるわなくて、すこしがっかりしてるんだ」とコメントした日本未公開作品がある。それが『キャッツ・アイ』だ。当時、天才子役として名を馳せたドリュー・バリモアが主演、ドリューを想定してキングが脚本を書き、最終話に登場するトロルをデザインしたのは『E.T.』を作成したカルロ・ランバルディといった豪華ぶりだ。

 『キャッツ・アイ』はキングの短編『禁煙挫折者救済有限会社』『超高層ビルの恐怖』と、キングがドリューのために書き下ろした『ジェネラル』の3話からなるオムニバスである。3つのストーリーは1匹の猫の眼を通して描かれ、1話、2話で猫に助けを求める少女(=ドリュー)が3話でついに助けられる。

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ランバルディがデザインしたトロル

3話のラストシーンは猫のジェネラルVSトロルの対決となる。トロルは猫のジェネラルによってレコードプレーヤーの上に誘き寄せられる。ジェネラルがプレーヤーのスイッチを入れるとレコード盤がスピーカーを通して歌い始める。そして、トロルはその上でレコードと共にくるくると回る。ジェネラルが更に回転速度をあげると、レコードはまるでヘリウムガスを吸ったような声で歌う。やがてトロルはプレーヤーの上から放り投げられ、扇風機に突っ込み、その体は粉々となり肉片が飛び散る…この場面はペローの『長靴をはいた猫』がオーガを言葉巧みに鼠に変身させ、しまいには食べてしまうという、猫が知的戦略を使って勝利するというシーンを思わせる。(『長靴をはいた猫』に登場する人食い「オーガ」は国によってはトロルと同等の意味を持つようだ)。ドリューの役所は猫に救われたプリンセスといったところで、御伽噺性が強い。ファンタジーともホラーとも受け取れる作品だ。

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『炎の少女チャーリー』

 この映画の成り立ちは『炎の少女チャーリー』でドリューに魅せられたプロデューサー、ディノ・デ・ラウレンティスが、キングにドリューに合わせたオリジナルの脚本を書かないかと打診してきたことから始まる。撮影当時、わずか8歳にして大物プロデューサーを虜にしてしまうとは、並みの少女ではない。私はドリューこそ、ナボコフの『ロリータ』に相応しい役者であったと考える。

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スー・リオンの『ロリータ』

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ドミニク・スウェインの『ロリータ』

 62年のキューブリック版『ロリータ』のスー・リオンはやけに大人びていてロリータのイメージとはかけ離れていたし、97年のエイドリアン・ライン版『ロリータ』のドミニク・スウェインは、少女らしい純粋なイメージはあったものの、ジェレミー・アイアンズ演ずるハンバードの哀愁が漂いすぎていてナボコフの原作から遠ざかったバランスの悪い映画となっていた。ハンバードは12歳の少女に翻弄された可哀想な男ではなく、滑稽な男でなければいけない。「かわいい」といわれるにはぎりぎりの年齢に差し掛かっていたこの頃のドリューだったら、ハンバードを翻弄する無邪気な少女を上手く演じたに違いない。ドリューは92年公開の『ボディヒート』で友人の父親を虜にし、その一家を崩壊させてしまう少女を演じたが、その頃のドリューは残念ながら、もう「ニンフェット」ではなくなっていた。 

 キングは、インタビューの際に『キャッツ•アイ』への想いをこのように語っている。

インタビュアー:『キャッツ•アイ』では、製作中もずっと密接にかかわっていたのですか?

キング:しっかりとね。自分で書いた脚本の第一稿を読み、企画が進んでいくのを見ているうちに、ぼくはこの映画に関しては、とことん協力しようと固く決意したんだ。これまでかかわってきたほかの映画はすべて、『死霊の牙』にさえ、ぼくが《離婚条項》と呼んでいる条項が含まれていた。結婚解消に責任をもたずにすむというやつだよ。この条項さえあれば、もしディノが、あるいは監督がやってきて、「なあ、われわれはこれが気に入っているが、舞台を外宇宙にしたいんだ」とか、「われわれはこれが気に入っているが、狼人間の役をメリル•ストリープが演じられるように変えてもらえないかな」といってきたらーうん、この案はなかなか悪くないなーぼくはその条項をつかって、すぐに映画から離れられるのさ。

 でも、ぼくは『キャッツ•アイ』の企画がとても気に入っていたし、正直いって、誰かほかの人間に変な口出しをさせたくはなかった。だから、こう思ったんだ、「まあ、ぼくだってほかの人たちと同じように、自分が正しいと思うことのために努力するくらいはできるだろう」ってね。だから、『キャッツ•アイ』に関しては、ぼくは何があろうと我慢して、最後まで全面的に協力し続けたんだ。

(『スティーヴン・キング インタビュー 悪夢の種子』 風間賢二 監訳 リブロポート刊 より)

 そして、ドリューは自伝で、キングのことをこのように綴っている。

「スティーヴン•キングは、いつも現場の雰囲気を明るく愉快なものにしてくれた。私たちは最初からとても気があった。彼自身、子供のような人なのだ。それは彼の目を見ればわかる。何かアイデアが浮かぶと、彼の目はまるで悪巧みを思いついたいたずら坊主のように輝くのだ。《中略》現場では、スティーヴンと私はいつもおしゃべりをした。音楽のこと、テレビ番組のこと、映画のこと、そして1番おいしいのはどこのハンバーガーかといったことを、何時間も話した。彼のような人との出会いこそが、私が映画作りを愛する理由だった。彼は私を尊重してくれた。父親のようなスティーヴンに褒められたり、抱きしめられたりすると、心が満たされ、愛されていると感じることができた。」

(『ハリウッド・エンジェル 失われた少女時代を乗り越えて』

 ドリュー・バリモア/トッド・ゴールド著 早野依子訳 PHP研究所刊 より)

 『キャッツ•アイ』は、ただの恐怖映画ではなく、スティーヴン・キングとドリュー・バリモアのそれぞれの作品に対する想いや信頼が浮き彫りとなった、もっと純粋な…もう1つのハンバード・ハンバードとドロレス•ヘイズの物語を織りなしているようにも見えたのだった。

執筆者:渡部美優貴 Miyuki Watanabe

文学部3類 卒業論文のテーマは『フリークスの物語学』です。映画が大好きなので、少しでも時間ができれば映画館へ向かいます。

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